概要
花沢のオシャモッツァンは焼津市花沢集落に向かう緩やかな坂の途上にあるシャグジである。
花沢集落は古代東海道の難所である日本坂峠への入口に当たり、
重要伝統的建造物群保存地区「花沢の里」として江戸期以来の歴史的景観を保っている。
集落のすぐ手前にある崖の岩自体がオシャモッツァンとされ、
今は自然石があるだけだが、「高草山麓のむかし話」によると以前は岩肌上に小祠があったそうだ。
なお、オシャモッツァンの地図上の位置は焼津市吉津であるが、同書では花沢字一之郷としている。
道路整備に伴いオシャモッツァンの崖自体が削られ、
一時は落石防止フェンスに沿って設置された竹垣の背後に隠れてしまったが、
地元の要望でその部分の垣根だけ切り取られ、拝めるようにしたとのことである。
歯痛や子どもの病気に御利益があるとされ、耳の神様ともいわれる。
(塩澤藤雄「高草山麓のむかし話」、焼津市史民俗調査報告書「花沢の民俗」、「焼津市史民俗編」)
踏査結果・考察
花沢のオシャモッツァンは観光ルート上にあり、
人目を惹く解説板が掲げられているため多くの人々に知られる存在である。
私が出会った最初のシャグジであるが、「オシャモッツァン」という名前といい、
祠もなく、神か仏かもわからない不思議な信仰を当時は理解できず、二十年近く心に引っかかったままになっていた。
その後静岡のシャグジ踏査を始めた経緯は「このブログについて」に記載している。
境界神としてのオシャモッツァン
さて、このオシャモッツァンは集落の入口にあるシャグジであり、
道を挟んだ向かい側には馬頭観音が二体置かれていることからも、
元来は境界神として祀られていたことがわかる。
元来の「花沢」の範囲
また、「焼津市史民俗編」は、
戦国期に築かれた花沢城が「花沢」を名乗りながらも実際には花沢南方に位置する高崎にあることに着目し、
かつては「花沢」の範囲が現在よりも広域だったことを指摘している。
さらに、同書は「現在の花沢集落はかつて法華寺の寺域だったのではないか」と推定している。
武田氏の支配下にあった花沢城が落城した際に法華寺も焼かれてしまったが、
その後、庶民がその寺域に住み始めたのではないかというのである。
分家が集落の最も山側の土地に新たな家を建てていくこと等を踏まえた、説得力のある推定である。
この推定が正しければ、本来オシャモッツァンは、
高崎や吉津を包含する旧花沢地区と旧法華寺域の境界を示していたのかもしれない。
法華寺
なお、高草山法華寺は天平十年 (738)創建と伝わる古刹であり、焼津市唯一の天台宗寺院である。
現在は花沢集落の最奥にある一寺院だが、
坂本の林叟院は法華寺の小寺の跡であるとか、
直線距離で5kmほど離れた焼津六丁目の普門寺付近に法華寺の南門があったとか、
大覚寺の法昌寺付近に西門があったなどの伝承があり、
かつては広大な寺域を有していたことがうかがえる。
武田氏に焼かれ、古記録の一切を失ってしまったことが残念である。
日枝神社
法華寺の本堂隣には、天台宗寺院の鎮守である日枝神社があり、花沢の氏神となっている。
祭神は大山咋命、大穴牟遅命、少彦名命。
法華寺と同じく天平年間の創建とされる。
ただし、法華寺の縁起では、「野焼神社」を同寺の鎮守としている。
野焼神社は、花沢の南に接する野秋にある、現在の須賀神社を指すと考えられている。
法華寺の寺域が広大だった当初は野焼神社が鎮守神だったが、寺域の縮小に応じ、本堂隣に日枝神社として遷座したともいわれる。
相殿に多賀、八幡、春日、稲荷、天照大神、熊野、鹿島、諏訪、愛宕、賀茂、祇園の十一社があるが、
これらは山王権現とともに古くから祀られ、シャグジは含まれていないようだ。
高草山麓のシャグジ
花沢のオシャモッツァンは当地のみの独自信仰と捉えられがちだが、
実態は高草山麓沿いに残る数多くのシャグジ伝承の一つに過ぎない。
これら東益津地域のシャグジにまつわる特段の祭祀伝承等は知られておらず、
祠のないシャグジに至っては存在自体がほぼ忘れ去られてしまっている。
一方で、花沢の南方にある小川地域には、
地域の中心的存在として今も生き続ける左口神社のようなシャグジもあり、
その振れ幅の激しさをどのように理解すべきか、答えは容易に得られそうにない。
天台宗寺院とシャグジ
その中で一つの手がかりと考えているのが、天台宗寺院とシャグジの関係である。
島田東光寺など現在も残る数少ない天台宗寺院、
あるいは興津耀海寺などかつて天台宗だったという寺院の周辺にシャグジが見られる。
花沢のオシャモッツァンをはじめとする高草山麓のシャグジ群と法華寺の関係もその一例であり、
かつて天台宗寺院があった他の場所についても調査の必要性を感じる。
このことは、駿河シャグジの起源を中世に求める上でも留意すべき観点と考える。
2023/8/13再踏査
コメント