石脇浅間神社(社宮司)

焼津市石脇下705

概要

石脇浅間神社は石脇上下の氏神であり、徳川家康が当目合戦の際に旗を掛けたという「旗掛石」の背後に鎮座する。
この石は石脇の旧家である原川家のかつての門前にあり、直径4mほどの二つの巨石にそれぞれ注連縄が巻かれている。

石脇浅間神社鳥居

原川家は遠州原川村(掛川市)の出身と伝わる。
当地に移住後、延徳三年(1491)に原川村の浅間社を勧請して屋敷神としたが、
石脇住民の要望により、村全体の氏神としたとされる。

石脇浅間神社拝殿

原川家の屋敷は天正十年(1582)頃の当目合戦における徳川方の本陣となり、
小牧長久手の戦いでは原川新三郎が石脇周辺の男子の動員を命じられるなど、家康に忠節を尽くしたという。

家康は天下統一ののち、鷹狩りの際に度々原川家に立ち寄り、その際にも旗掛石に旗を掛けたそうだ。
また、地名の「石脇」も旗掛石に由来するとされる。

境内社に津島神社、八幡神社、社宮司がある。

左 社宮司、右 津島神社

なお、当社近くの小山上にあった石脇城は、
伊勢新九郎(北条早雲)が文明八年(1476)頃から十年程度在城したことで知られる。
この間、今川家に生じた激しい家督争いを収め、
その後の伊豆平定、小田原城奪取、相模平定を経て、
北条氏が五代にわたり関東を支配するに至る、その礎となったのが石脇の地である。

石脇城跡
石脇城跡

(塩澤藤雄「高草山麓のむかし話」、「ふるさと東益津誌」、「焼津市史民俗編」、「志太地区神社誌」)

踏査結果・考察

石脇浅間神社の鎮座地は高草山の裾野であり、旗掛石は元来高草山を遙拝する磐座だったと考えられている。

高草山
高草山
旗掛石
旗掛石

実際に旗掛石を目の当たりにすると写真で見る以上の存在感がある。
江戸期の絵図には今よりも高く描かれており、磐座と呼ぶに相応しい威容を示していたことだろう。

神社境内にもいくつかの玄武岩の巨石が見られる。
神社境内にもいくつかの玄武岩の巨石が見られる。

塩澤藤雄氏によるシャグジ踏査記録

社宮司祠
社宮司祠

さて、社宮司祠の台座には珍しく由緒が刻まれていた。

社宮司由緒
社宮司由緒

「稲の魂は籾に宿る 一粒の米にも穀霊は宿る
 穀霊を守り育む 土を開くりて水田を開拓し給える神
 風雪干魃の祟りを守り賜ふ神
 おしゃもつあんとも申奉る
  昭和六拾稔十月
  撰文 塩沢藤雄」

撰文者の塩沢藤雄氏は「高草山麓のむかし話」の著者である。
訪問時には気づかず、本記事を書き始めてからそのことに気がついた。
さらに、「ふるさと東益津誌」で石脇の歴史と原川家の関係を詳細に紹介しているのも塩沢氏であり、
昭和六十年の石脇浅間神社再建時の奉賛会名誉会長として境内の記念碑にもお名前が見える。

このうち、「高草山麓のむかし話」には江戸期の地誌にも記録されていない多くのシャグジが紹介されている。
祠もない、ちょっとした雑木林や藪でしかない「おしゃもつあん」も多くあったといい、
最初に読んだ際は、高草山西麓の随所にあったシャグジの具体的な記録の数々に衝撃を受けた。

あるいはこうしたシャグジのあり方は当地に限らないのかもしれない。
しかし、それらについて残された資料はあまりに乏しく、
高草山麓の今では跡形もないシャグジを多く掲載した本書は非常に重要な記録だと思う。

社宮司の創祀時期

なお、「石脇」地名は「旗掛石」に由来するとされるが、
石脇城関連の文書から、家康との逸話以前から石脇と呼ばれていたことがうかがえる。

では、石脇の社宮司はいつから祀られているのか。
石脇は戦国期のエピソードが豊富な分、戦国以前の歴史が上書きされてしまったような印象を受ける。

塩沢氏は社宮司が古代から祀られていたことを前提としていたが、
その根拠となる具体的な伝承や史料は見いだせない。

ただ、石脇南西方の大覚寺にある左口神社は鎌倉期の勧請と伝えられており、
石脇でも浅間社の勧請以前からシャグジが祀られていた可能性は大いにあると考える。

それにしても、高草山麓東益津のシャグジに関しては、
物部氏や三輪氏との関係、また、山の神との関係など、様々な疑問が尽きない。
石脇在住だったシャグジ踏査の大先達、塩澤藤雄氏のお考えを尋ねてみたいところである。

2023/8/25踏査

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