
概要
高松神社は旧大里村の村社であり、素戔嗚尊を祭神とする。
境内社に神明神社、左口神社がある。

神明神社、左口神社は共に字神明原地内にあったが、明治二十年に高松神社に寄せられている。
なお、静岡市神社名鑑では境内社とされているが、
静岡市史では合祀となっており、高松神社は素戔嗚尊、天照皇大神、猿田彦命の相殿とされている。
遷座前の左口神社は村の北方に鎮座し、槙、松、樟が多くあったという。
祭神は猿田彦命である。
(「駿河村誌」、「大里村郷村社明細書(静岡市史編さん資料)」、「静岡市史」、「静岡市神社名鑑」)
踏査結果

現地の由緒書に境内社や相殿に関する記載はなかった。

本社のほか、三峯祠と小さな石祠があったが、神明神社と左口神社の社殿は見当たらない。

そもそも高松神社という社名自体、江戸期の地誌には出てこない。
一方で、由緒には「文化二年再建」とある。
氏神を維新後に改称し、村名を冠した社名とすること自体はよくあることだが、
高松神社の場合、各種資料に旧称に関する記載が一切見当たらず、不自然な印象を受ける。
しかし、神社境内ではこれ以上の情報を得られそうにない。
周辺の史跡に何か手がかりがないか、地図に「薬師堂」と記されている、神社近隣の場所を訪問した。


建物には「薬師堂」の扁額が掲げられているが、隣に赤鳥居が立っている。


鳥居の先にある堂内には、地蔵や如意輪観音像が安置され、稲荷も祀られていた。
どうやらここは、かつて高松で信仰されていた様々な神仏が、混然と寄せられた場所のようだ。

よく見れば、薬師堂前に置かれた手水鉢には「金山神社」の文字が見える。
ということは、少なくとも金山神社は高松神社の前身でなく、薬師堂に寄せられたのだろう。
なお、大里村誌は金山社の位置を「髙松薬師堂ノ東ニアリ」としている。

そのほかに、シャグジを思わせる自然石が安置された小祠もある。
資料を当たると、これは「塞の神堂」であり、「咳の神」として信仰されていたそうだ。
「塞(せき)神」から「咳(せき)神」、さらには「石神」へと、シャグジにも通じる信仰であり、左口神社とは別のものだが興味深い。

(「近世高松における民間信仰の石造物(南部郷土史大学だより第60号)」)
考察
高松神社の旧称について

左口神社との関係を把握するためには、本社である高松神社の由緒をはっきりさせたい。
ということで、高松神社の旧称は何だったのか。様々な資料から検討してみた。
高松神社は四荒神社か
かつて高松は、西側に位置する宮竹、敷地と合わせ、高松三ヶ村とされていた。
江戸期の地誌でも三ヶ村を一括して記載する場合があり、各村の状況把握が難しいため、
現在の高松地区にあった寺社の記録のみを抜き出し、時系列で整理してみる。
西暦 | 和暦 | 高松神社 | 四荒神社 | 左口社 | 神明社 | 金山社 | 水神社 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1805 | 文化二年 | 再建 | 静岡県神社名鑑 | |||||
1820 | 文政三年 | 四荒神社 | 左口社 | 神明社 | 金山社 | 水神社 | 駿河記 | |
1834 | 天保五年 | 荒神社 | 左口社 | 神明社 | 金山社 | 水神社 | 駿河国新風土記 | |
1861 | 文久元年 | 四荒神社 | 神明社(二ヶ所) | 金山社 | 水神社 | 駿河志料 | ||
1874 | 明治八年 | 村社に列す | 静岡県神社名鑑 | |||||
1880 | 明治十四年 | 高松神社 | 左口神社 | 神明社 | 駿河村誌 | |||
1886 | 明治二十年 | 高松神社 | 高松神社に合祀 | 高松神社に合祀 | 大里村郷村社明細書 | |||
1913 | 大正二年 | 高松神社 | 荒神社 | 金山社 | 大里村誌 | |||
1931 | 昭和六年 | 高松神社 | 静岡市史 |
こうして眺めると、明治八年に四荒神社を大里村の村社に列する際、社名を高松神社に改称したようにしか見えない。
なお、大正二年の大里村誌は高松神社と荒神社を併記しているが、
荒神社に関する内容は江戸期の地誌からの転記であり、遺跡として記載しただけのようだ。
残る水神社は明治以降消息不明である。
四荒神社の由緒
駿河国新風土記などによれば、四荒神社の鎮座地は、かつて「構(かまえ)の森」と呼ばれていたという。
古くは城郭があり、その四隅に祀られた社を一社に合祀したのでスミノ荒神と称したとされる。
付近に大屋敷、堀、鑓場、矢塚などの地名があったといい、史実を伝えるものと考えられるが、
誰が城を築いたのか、江戸期の時点で既に知る者はいなかったようだ。
さて、高松神社の祭神は素戔嗚尊である。
そして、スサノオは荒神社の祭神とされることも多い。
このことからも、高松神社は明治八年に四荒神社から改称した神社だと考えられる。
明治三十四年の四荒神社資料
ところが、ようやく腑に落ちた検討結果を全否定する資料を入手してしまった。

明治三十四年付の「安倍郡大里村高松 四荒神社奉燈並ニ掛連句集」である。
これは四荒神社に奉納した句集ということだろうか。
句者は清水方面を含む、高松周辺の広域にわたっている。
この資料は、四荒神社が明治三十四年に存在していたことを示している。
では、同時期に既にあったはずの高松神社とはどのような関係だったのだろうか。
そして、四荒神社はその後どうなったのだろうか。
次々に疑問が浮かんでくるが、落ち着いてよく考えてみた。
社名に関する仮説
こうした状況は、「明治八年に公式には高松神社へと改称した後も、地元では引き続き、四荒神社と呼んでいた」ことで生じたと考えられないだろうか。
近代社格制度が強引に推進される中、四荒神社から高松神社への改称を余儀なくされたものの、
地元では、明治三十四年の段階でも、伝統社名である四荒神社と呼び続けていたのではないか。
こうした葛藤があったとすれば、公式資料に改称の経緯が記されていないことも頷ける。
高松三ヶ村のシャグジ
本題の高松のシャグジについて、改めて整理しておく。
駿河国新風土記は高松、敷地、宮竹を高松三ヶ村とし、各一所ずつ「左口社」があるとしている。
駿河志料、駿河記は敷地に「左宮司社」があるとするが、高松、宮竹には記載がない。
また、現在、各村の神社は、高松神社、諏訪浅間神社(敷地)、宮竹神社の三社にまとめられている。


大里村誌は敷地の左口社跡について、以下のように記している。
「今某氏北に其跡あり
新風土記に敷地にありと見えたるもの是なるべし
駿河志料に-左宮司社小祠なり-と見えたるもの亦是なるべし
里人云当地に田圃を開く頃用ひたる縄を埋めて祭れるなりと」
つまり、高松、敷地、宮竹にはそれぞれにシャグジがあり、検地の神として信仰されていたが、
各種の地誌においては、敷地にあったシャグジについての記載が主となっている。
一方で、静岡市神社名鑑では、高松神社の境内社として左口社が挙げられているのみで、
敷地と宮竹の左口社が村社に寄せられたという記録は見当たらない。
このうち敷地のシャグジは今井野菊氏も社宮司社として記録しており、
まだ確定できていないが、おそらくは諏訪浅間神社近くにある、以下の写真の祠ではないかと考えている。

2022/6/19踏査
2024/12/25再踏査
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