興津社護神社(茨原神社合祀)

興津社護神社・続へ

(旧鎮座地)静岡県静岡市清水区興津本町字楠ヶ窪763
(茨原神社)静岡県静岡市清水区興津本町字登り段642-7

茨原神社
社護神社が合祀された茨原神社

概要

興津社護神社は天照大御神と猿田毘古神を祭神とする。
創建時期は不明であるが、貞享三年(1686年)の古図には既に「社護神」と記されているという。

昭和八年に社殿を焼失し、古記録等は存在しない。
昭和九年には社殿を新築している。
しかし、参道が崩れ維持困難であったため、平成二十四年に茨原神社に合祀された。
なお、“茨原”は“庵原”の転訛と考えられている。
(「興津三十年誌」、「茨原神社由緒書」より)

由緒書
椿大神社は猿田彦の総本社

茨原神社については江戸期の地誌に記載があるが、
社護神社に該当するシャグジはなぜかいずれの地誌にも見当たらない。

踏査結果

興津社護神社は現在の地図にも独立社として明記されている。
このため、現地訪問時に初めて茨原神社に合祀されていたことを知った。

その茨原神社自体も平成二十四年に山の中腹から現在地に移転したということである。
この移転の際に社護神社を合祀したようだ。

ただ、Googleマップには元の社護神社と思われる写真が投稿されている。
このため、旧社殿も現存しているのではないかと思われた。

しかし、麓から旧茨原神社に至る石段は封鎖されており、
他の登り口も見当たらないため、麓から旧社護神社を目指すことはできない。

旧茨原神社参道入口
封鎖された旧茨原神社参道入口

地図を確認すると、山頂方面には農道が整備されており、旧社護神社付近にアクセスできるのではないかと思われた。
かなり大回りになるので躊躇したが、現存の可能性がある以上、意を決して踏査を試みることにした。

バイクでしばらく見当外れの探索を繰り返した後、
最終的には山路を歩き、旧社護神社西側からアクセスできそうな広い平場にたどり着いた。

平場から山中に入って藪をこぎ、多数の大きなジョロウグモの巣に悩まされながらそれらしき場所を探す。
しかし、作業小屋の廃墟など人の活動の痕跡は見受けられるものの、
明らかに地図上の社地と思われる場所に至っても社護神社らしき建物は見当たらない。

作業小屋の廃墟
作業小屋の廃墟 余裕なくほとんど撮影できなかった

結果として安全を確保して探索できる範囲では旧社護神社を発見することはできなかった。

地図の誤りなのか、既に社殿が撤去されていたのかはわからない。

考察

その後確認できた「興津三十年誌」掲載の旧社護神社の写真は、
Googleマップに投稿された祠の写真とは明らかに異なるものだった。

改めて投稿された写真を確認すると、明治期の寄進者の名前が多数記されている。
つまり、昭和初期に焼失した社護神社の社殿ではないということになる。
この祠の正体も気になるが、少なくとも旧社護神社の現存を裏付ける資料ではなかった。

ところで、清見寺の背後に当たるこの平場は現在農地になっているが、
現地にあった家康御手植蜜柑の看板や清見寺関係の資料から、かつて瑞雲院があった場所であることがわかった。
瑞雲院は現在清見寺西側に隣接しているが、幕末までは清見寺境内山上にあった。

家康御手植蜜柑
かつての瑞雲院の庭園にあった家康御手植蜜柑

ということは、社護神社は瑞雲院の伽藍神だったのではないだろうか。
寺院の境内社であったならば江戸期の地誌に記載がないことも頷ける。

また、現在の瑞雲院は臨済宗妙心寺派の寺院であるが、本尊は延暦二十四年(805年)最澄作と伝えられる如意輪観世音菩薩である。
このことからすると、清見寺と同様、創建当初は天台寺院だったのではないだろうか。

この社護神社の立地状況は、天台宗で祀られる摩多羅神とシャグジ(宿神)の関係性に通じるように思う。
創建時期も足利尊氏による瑞雲庵の建立時期(南北朝期)近くまで遡る可能性があるのではないか。
まだ深掘りする余地がありそうなシャグジである。

このように想像は様々に膨らむが、旧社護神社の現状は確認できず、不完全燃焼な踏査結果ではあった。
機会があれば関係者に実情について教えを請いたいと思う。

2021/10/24踏査

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静岡のシャグジ一覧

旧社護神社近くからの眺望
旧社護神社近くからの眺望

コメント

  1. 入江紅鶴 より:

    興味深く拝読させていただきました。
    記事中にgoogleマップに投稿されている写真…との記述がありましたので、僭越ながら補足させていただきます。
    結論から申し上げまして、ここにアップされている写真は貴殿がお探しの社殿ではありません。
    投稿者の間違い(またはミス投稿)です。

    これは清見寺裏の「秋葉権現」です。
    寄進者銘は当社殿の裏に掲げられているもので、清見寺・瑞雲院を筆頭に、興津に多く見られる塩津姓が並びます。
    当地はすでに地元の方の記憶からも久しく、余程でない限り知る人は居りませんが、大正2年発行の「興津町誌」4巻(寺社の項)には記述が見られ、その解説には金比羅講との関連が見受けられます。
    また蛇足ながら、正面石段の前には鳥居の基礎石とみられる痕跡も残っており、今は消し去られた、在りし日の習合の姿に思いを偲ばずにはおれません。

    長文失礼致しました。
    また本件が既に解決済みでしたら、
    冷笑にてお許し下さい。

    • ごんぶと ごんぶと より:

      入江紅鶴様

      あれは秋葉権現だったのですか!
      謎が一つ解け、胸のすく思いです。
      貴重な情報を頂き誠にありがとうございます。

      早速興津町誌も確認し「秋葉三尺坊」の項があることも承知しました。
      まだ読み下せておりませんが、気になる単語が並んでいるようです。

      入江様御指摘のとおり、庵原地区には神仏習合だった当時の雰囲気を伝える寺社が多い印象を抱いております。
      また、自分がテーマとしているシャグジに関しては断片的な伝承等が多く、もどかしくはありますが、考察のし甲斐もあると感じております。

      改めましてこのたびは厚く御礼申し上げます。
      またお気づきの点等ございましたらぜひ御教示くださるようお願いいたします。

  2. 入江紅鶴 より:

    ごんぶと様
    シャグジについては不勉強ながらも、
    興津ネタは他人事とは思えず、拙も当地の調査に赴いて参りました。
    貴殿に見習い、清見寺町方面からグルりと廻って入山、瑞雲院跡地ルートを採りました。
    現地では1/25000地形図アプリで確認しながら、慎重にGPSで場所を特定。
    恐らく(地図上では)間違いのない地点に到達は致しました!が… 。
    もはや管理を放棄された竹林の中で呆然と立ち尽くす我、足下には大量のニホンジカの糞だけが…。撃沈でございます!
    社殿はございません!
    それでも調査中には現地付近で「清山」と彫られた(清見寺)境内地を示すと思われる石碑が埋もれているのを発見致しました。現在でも当地は興津本町と清見寺町の境界線付近でございますが、この石碑から推測するに、少なくともこの境界は江戸期より然程変化していない事を予想させてくれます。

    話題が逸れました。
    一応、現地聞き取りも行いまして、まずは付近で山仕事をされていた農家の方々曰く、「聞いたことも見たこともない」。次に坐漁荘の現地ガイドさん曰く、「初めて知った」。更に瑞雲院さん曰く、「確認できていない」。
    聞き取りに関しても撃沈!
    現地の方々でさえ、誰も知らないという散々な結果に。
    こうなると「興津三十年誌」記載内容の信憑性や根拠を問いただしてみたくもなりますが、逆に大正2年「興津町誌」4巻(社寺の項)の最後の一行、“他に社護神社というのもあるけど、特記する事はないです“ というあまりにもな記述には、良くも悪くも潔ささえ感じられます。

    さて、貴殿も確認済みかと存じますが、
    「東海道分間延絵図」の興津宿。
    該当地は「社古地」と記載され、赤鳥居も描かれています。シャコ(ゴ)チ(ヂ)!
    単に字面として「社古地」を考えると、
    ・古い社のある地
    ・かつて社があった地
    二通りの解釈が可能かと思いますが、これ以上の判別は付きません。
    またこの表記は社(または祭神)の名称と言うよりも、むしろ、当地を指した呼称という印象を受けます。(空き地・駐車場・畑というような普通名詞的な)。
    もしも、表記が “社護地” だったら良かったのですが…(悩) 夢に出てきそうです。

    さて、アプローチをする度に逃げて行く興津の社護神社ではございますが、
    もう一つの調査の可能性として興津本町の「耀海寺」を挙げておきたいと思います。日蓮宗の寺院です(改宗前は真言宗)。
    明治まで茨原神社の前身であった祈祷殿を所轄し(ご存じの通り、現在は茨原神社と不動院に分離されています)、甲州修験の発展に伴いながら、身延の入口として此処に一大修験道場として栄えた歴史があるとのこと。
    つまり興津本町側の山は当山の修行場であったと考えられ、当然そこには社護神社とされる社(場所)も含まれていたと推測されます。
    現在の耀海寺でも「法華経ー普門品」に説かれる変化三十三観音の建立などを見かけるに、多分に密教的な要素を伺うことができます。当山が一方の巨刹禅宗寺院とはやや違う、深い信心の歴史を秘めた寺院であることは間違いありません。

    それにしても、
    興津三十年誌の謎(汗)

    • ごんぶと ごんぶと より:

      おおお、詳細な現地確認から聞き取り調査まで!
      やはり社殿はありませんでしたか・・・。
      残念ですがまた一つもやもやが晴れました。本当にありがとうございます!

      恥ずかしながら東海道分間延絵図はこれまで意識して確認したことがなかったのですが、どうやら重要資料のようですね。
      「社古地」の記載があったとは!
      シャグジの漢字表記は頻繁に変化しますので、間違いなくシャグジだと思います。
      今後は自分も基礎資料としてしっかり活用するようにいたします。

      それにしても本当に正体がつかめませんね。
      耀海寺については自分でも勉強してみます。
      このたびも誠にありがとうございました!

  3. 入江紅鶴 より:

    ごんぶと様
    いつも恐縮でございます。しかし拙はそもそもシャグジが何者かを理解しておりませんので、見当外れのコメントを差し上げてしまうこともあろうかと存じます。その折は遠慮なくご指摘を頂戴できればと存じます。

    さて「東海道分間延絵図」でございますが、何分にも書籍では扱い易いものが無く、やはりネットが頼りになります。
    具体的には、東京国立博物館の画像検索、文化庁の文化遺産オンラインで閲覧が可能となっております。しかし両者共に使い勝手は良くありません。
    そこで、こと静岡市近郊に限定はされますが、以下のサイトをオススメとして挙げさせていただきます。

    「日本遺産 駿州の旅 藤枝市 静岡市」
    運営: 駿州の旅日本遺産推進協議会
    https://stroly.com/users/9756472369/

    当サイトは絵地図とGoogleマップの比較が可能となっており、該当地点のおおよその現在地を検討できるというユニークなものとなっております。
    漠然と眺めているだけでも十分に面白いものですが、貴殿のように元々の知識蓄積の豊かさと観察眼を持って挑めば、必ず新たな発見があると思われます。
    今更でございますが、拙の調査の中心は江戸期の習合状態のあり方と明治期の分離状況、そして廃寺といった辺りをテーマとしておりまして、やはり絵地図からは縁起や文献史料とは違った、生々しさを教えられる事が多々ございます。

    貴殿の調査のお役に立てれば幸いです。

    • ごんぶと ごんぶと より:

      まさに今欲しかった情報を頂きありがとうございます!
      ネットでいくつかの絵図を見ましたがあまり鮮明なものがなく、図書館で確認しようとしていたところでした。

      まだ見始めたばかりですが、御指摘の社古寺も確認できました!
      今後は必須資料になりそうです。

      自分はなにぶんシャグジ一本に絞って調査しているので興味関心が偏ってしまっており、
      入江様のように幅広い観点からご指摘いただけると大変勉強になります。

      今後ともよろしくお願いいたします。