概要
安倍郡千代田村誌(大正二年)
川合社口神社は、かつて川合と上土の中間を通る道沿いにあった小祠である。祭神は不詳。
古来より、祈願する者は「すぐり藁」のままの大きな草鞋(わらじ)を必ず奉納していたという。
大正二年の「安倍郡千代田村誌」に以下の逸話が記されている。
「埼玉県秩父郡三田川村出身で日露戦争に出征することになった人物が、
もし凱旋できれば石灯籠など永遠不朽のものを奉納すると龍爪山に祈願したところ、
幸いにして無事凱旋したため、その宿願を果たすこととなった。
しかし、龍爪山は遠隔の地であったため、
鉄道駅に近く、龍爪山の往還に位置する社口神社が適地であるとして、
地主の合意を得て社地を購入し、
それまで社祠の如きものがなかったところに新たに小祠を建て、
本人の病死後はその子息が遺志を継ぎ、石灯籠や周囲の石垣等を寄進した。」
千代田誌(昭和五十九年)
一方、昭和五十九年発行の「千代田誌」には、川合住民の談話として以下のように記されている。
「昔からお杓子さんの小祠があった場所に、
埼玉から年二回ほど、織物を行商しながら家相を見る者が訪れていた。
この人物が南沼上の石屋と共に堂を建てて祀っていた。
その後昭和十年頃、清水水産の罐詰工場が建設され、その管理を受け持っている。
また、社口神社裏の鍛冶屋が沓谷山根から稲荷を遷して祀っていたが、
これについても清水水産が稲荷堂を建立し、社口神社と合わせて管理している。
同地に立つ榜示石(表左ふちう、側左竜爪道)は、北街道と竜爪道の辻(上土交番のある交差点)から移されたものである。」
なお、川合と接する上土は近年まで「上土新田」という地名だった。
「揚土」とも表記し、巴川沿いの低湿地に土をかき上げて造成したことに由来する地名である。
このように新たに開拓された土地に勧請したシャグジだったためか、川合社口神社に関する江戸期の記録は見当たらない。
踏査結果・考察
川合社口神社に関しては、二つの地誌に記された内容に大きな違いがある。
「安倍郡千代田村誌」は同時代記録であり、
奉納者の氏素性が三代にわたって明記されていることから信頼度は高い。
一方、「千代田誌」の内容は、
「埼玉」という共通の地名が出てくるものの、筋書きが千代田村誌とは大きく異なる。
ただし、少なくとも清水水産が神社を管理していたことは当時の具体的な記録であり、事実だろう。
ところが、その清水水産は昭和六一年に廃業しており、工場跡地は現在住宅地となっている。
社口神社の面影はまるでなく、周囲の神社等に寄せられたという記録も見当たらない。
静岡市葵区にある他のシャグジは、何らかの形で現存はしていても、伝承らしい伝承が残っていない。
こうした中、川合社口神社は、草鞋を奉納することや祠建立の経緯が伝わっており、現存しないながらも貴重な事例だと思う。
このシャグジは村境の街道沿いに鎮座していたことから、道祖神的な境界神の性格を持っていたのではないか。
昭和末期まであったとすれば事情を知る住民も多くいると思われ、その確認は今後の宿題である。
2022/10/8踏査
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