女体の森宗像神社(猿田彦大神)

静岡市清水区興津中町554

猿田彦大神の小祠

概要

由緒

女体の森宗像神社は瀛津(おきつ)島毘売命、狭依毘売命、多岐都毘売命の宗像三女神を祭神とする。
「興津」地名の由来ともされる神社である。

女体の森宗像神社鳥居

総国風土記の興津の項にある「茨原神社」は当社のこととされる。
これに基づくならば、往古茨原(庵原)明神を祀り、のちに宗像三女神を祀ったということになる。

なお、興津本町にある現在の茨原神社は、
明治の神仏分離に伴い、耀海寺(日蓮宗)の祈祷殿であった不動堂(現在は波切不動尊に移転)を茨原神社としたものであるため、
総国風土記の茨原神社には直結しない。

ただし、江戸期まで不動堂に併祀されていた茨原明神は、
往古宗像神社の地に祀られていた茨原神社の祭神と考えられるため、つながりはある。
永正七年(1510)の耀海寺開創に伴い、不動明王とともに改めて法華勧請され、現地に遷されたという。

女体の森宗像神社拝殿
宗像神社拝殿

さて、総国風土記には、「茨原神社 稚足彦(成務)天皇二年(132)初奉官幣帛絹」とある。
しかし、成務天皇は実在自体が疑問視されている天皇であり、
仮に実在したとしてもその在位は4世紀中頃ではないかと考えられている。

女体の森宗像神社本殿
本殿

また、世襲により代々宗像神社の神職に就いていた宮川氏が残した記録は、
平安後期の天徳三年(959)まで遡るという。
いずれにせよ、かなりの古社であることは確かである。

宝暦九年に興津能登守忠通が奉納した鳥居
宝暦九年(1759)に興津能登守忠通が奉納した鳥居
地震で倒壊したため断片を保存している。

「女体の森」の由来

宗像神社には多くの別名があるが、江戸期には「女体森」「弁天社」などと呼ばれることが多かったようだ。
「女体の森」という目を引く別名は、女神である弁財天を祀ったことに由来する。
その森が沖からも浮き上がって見えたことから「浮州の森」とも呼ばれ、
船乗りたちの目印として知られていたという。

大祓人形特殊神事湯立の儀式場
大祓人形特殊神事湯立の儀式場

境内社

境内社には、金毘羅神社、秋葉神社(金毘羅神社合祀)、慈母辨天社のほか、
猿田彦大神の小祠がある。
猿田彦大神が勧請された経緯は不詳とのことである。
(佐野明生著「宗像神社小史」、「興津三十年誌」)

金毘羅神社
金毘羅神社
慈母辨天社
慈母辨天社

踏査結果

耀海寺による、耀海寺と興津社護神社の関係が記された紹介文の中に、
「宗像弁天社の別当寺は耀海寺末寺の石塔寺だった」という趣旨の記載があった。

「宗像神社小史」を確認してみたところ、石塔寺に関する記載はなかったが、
思いがけず、宗像神社境内に猿田彦大神が祀られていることが記されていた。
こうした経緯から、「猿田彦大神の小祠」の確認を主な目的として訪問した。

現地を訪問すると、「宗像神社小史」の記載どおり、
本殿裏の少し離れた場所にぽつんと小祠が置かれている。

猿田彦大神の小祠
本殿裏の離れた場所にぽつんと置かれた小祠

近寄ってみると「猿田彦大神」と刻まれた石造物の断片が二つ、無造作に祠に立てかけられていた。

猿田彦大神
猿田彦大神その2

また、祠の中には烏帽子を被り、扇を掲げた小さな人形が置かれている。
完全に塗装を失い正体は不明だが、少なくとも猿田彦の像には見えない。

祠の中の人形

考察

ところで、この小祠に着目した理由は、
「猿田彦が多くのシャグジの祭神だから」ということだけではない。

「東海道分間延絵図」の現JR興津駅付近に、興津社護神社とは別の「社古地ノ森」があり、
その行方を探していた最中に出会った猿田彦だったため、結びつけずにはいられなかったのである。
なお、この森は宗像神社に比較的近い、身延街道を挟んで800mほどの場所にあった。

東海道分間延絵図「興津」身延道入口付近
東海道分間延絵図 身延道入口付近(左側に「社古地ノ森」、右側に女体ノ森辨財天)

これまでに確認した資料では、当社周辺に猿田彦に関連する他の神社等の存在はうかがえない。
また、もう一つの「社古地」である興津社護神社の祭神も猿田彦であり、
この小祠が「社古地ノ森」に祀られていた可能性はそれなりにあると思う。

かつて「社古地ノ森」があった場所は、
興津本宿(現 興津本町)と中宿町(現 興津中町)の境界付近に当たる。
このため、社護神社と同じく、このシャグジも土地の境界を司る神ではなかったかと考える。

2023/10/7踏査

樹木の根本に祀られているのがミシャグジ風
樹木の根本に祀られているところがミシャグジ風

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