(旧鎮座地)静岡県静岡市清水区興津本町字楠ヶ窪763
(茨原神社)静岡県静岡市清水区興津本町字登り段642-7
概要
興津社護神社の前回記事掲載後、興津社護神社に関する様々な情報を入江紅鶴様から頂いた。
中でも、以下の二点が特に重要な事項だと思う。
・「東海道分間延絵図」の現社護神社付近に「社古地」の記載があること
・当地は江戸期まで興津本町の「耀海寺」境内だったと思われること
東海道分間延絵図によれば、興津には社護神社以外にもう一つ「社古地ノ森」があったようだ。
耀海寺については、こちらのサイトに掲載されている寺史に社護神社に関する記載があった。
それによると、明治の神仏分離により、耀海寺の「創建の旧地(社の古地。しゃこち)は社護神社に分離し」たとされている。
これらを踏まえ、社護神社にまつわる関連寺社の歴史的推移について、以下に整理してみた。
平安期以前の伝承は甚だ心許ないが、何か見えてくるものがあるかもしれない。
興津社護神社関連寺社の歴史的推移
時代区分 | 和暦 | 西暦 | 旧社護神社地付近 | 旧茨原神社地付近 | 耀海寺地付近 | 興津宗像神社地 |
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4世紀頃か | 成務天皇二年 | 132? | 茨原(庵原・石原)明神 | |||
平安初期 | 延暦十年 | 791 | 不動明王像、信州諏訪 明神を安置し一宇を建 立 | |||
平安初期 | 延暦二十四年 | 805 | 観音堂建立 (最澄作如意輪観世音) | |||
平安中期 | 天台修験(本山派) | 宗像三女神 神仏習合により宗像弁財天 | ||||
平安中期~ | 真言修験(当山派)傘 下に入り、「林陽坊」 と号す一大修験道場と して栄える。 | |||||
南北朝時代 | 延文二年 | 1356 | 仏満禅師を招き開山 瑞雲庵と号す。 | |||
戦国時代 | 永正七年 | 1510 | 茨原明神・不動明王を 改めて法華勧請し、公 儀山に移す。諏訪明神 も併祀 | 教敬山耀海寺(日蓮宗) 開創 | ||
戦国時代 | 天正十一年 | 1583 | 瑞雲院に改名 | |||
戦国時代 | 慶長七年 | 1602 | 家康が瑞雲院の庭に紀 州蜜柑を植える。 | |||
江戸初期 | 慶長年間 | 1596 ~1615 | 祈祷殿や妙見宮・七面 宮・日朝堂など多数の 堂宇を有し、波切不動 尊・宇賀弁財天・妙見 大菩薩・大黒尊天・七 面大明神の霊験顕著は 四方に轟き、清見寺よ り興津川までを境内地 とした。 | 同左 | 女体森 弁天社 | |
江戸前期 | 貞享三年 | 1686 | 古図に「社護神」の記 入あり | |||
江戸前期 | 寛延二年 | 1688 | 宗像の社 (駿河名所和歌集) | |||
江戸後期 | 天明三年 | 1783 | 奥津神社 宗像の社 (駿河国志) | |||
江戸後期 | 文化三年 | 1806 | 東海道分間延絵図に 「社古地」あり | 女体ノ森 弁財天 (東海道分間延絵図) | ||
江戸後期 | 文政三年 | 1820 | 女体森 弁天 (駿河記) | |||
江戸後期 | 天保十四年 | 1843 | 興津社宗像弁財天 (駿国雑志) | |||
江戸後期 | 嘉永二年 | 1849 | 瑞雲院の堂宇を現在地 に移転 | |||
江戸末期 | 文久元年 | 1861 | 宗像の奥津宮 (駿河志料) | |||
明治時代 | 明治元年 | 1868 | 宗像神社 | |||
明治時代 | 明治四年 | 1871 | 耀海寺創建の旧地 「社古地」を社護神社 に改称 | 祈祷殿であり、天照太 神や八幡大菩薩、茨原 明神、七面大明神、諏 訪明神、天部の神々を 併祀する不動堂を茨原 神社に改称 疱瘡社(祇園牛頭天王 社)を津島神社に改称 | 客殿、庫裏、小堂のみ 残る。 | |
明治時代 | 明治九年 | 1876 | 夏心堂を始めとする諸 堂宇を整備 |
茨原神社と宗像神社、耀海寺の関係
まず、江戸期の地誌では、総国風土記にある「茨原(庵原)神社」は宗像神社のことだとしている。
現在の茨原神社は、永正七年(1510)に耀海寺が茨原明神・不動明王を公儀山(山中の旧社地)に法華勧請したことに由来するが、
江戸期の公儀山には、耀海寺の祈祷殿として「不動堂」が置かれていた。
茨原明神は不動堂に併祀された神々のうちの一柱として扱われ、東海道分間延絵図にも茨原神社の名は見えず、「不動」とされている。
なお、不動尊像は「波切不動尊」と呼ばれ、現在は茨原神社とは別に祀られている。
また、宗像神社の別当寺だったとされる石塔寺も耀海寺の末寺であり、往時の寺勢がうかがえる。
さて、社護神社であるが、前回の踏査時に「瑞雲院の伽藍神だったのではないか」と推論したが、
入江氏の聞き取りによると、現在の瑞雲院にそのような認識はないようだ。
一方で、耀海寺は社古地を「創建の旧地」と認識しており、
「清見寺より興津川までを境内地とした。」とのことから、
旧茨原神社地にあった不動堂と同様、「社古地」は耀海寺の管理下にあり、寺域の西縁に位置したことになる。
これらの新たな情報を踏まえ、2回目の踏査に臨んだ。
踏査結果
秋葉三尺坊大権現
今回はまず、かつて私が興津社護神社の社殿と誤認していた、清見寺境内の秋葉三尺坊大権現を訪問した。
こちらも入江氏からその存在を教えていただいた小祠である。
一般的な地図には記載されていないため、近くにあったはずの社護神社と誤認する方がいることも理解できる。
なお、大正二年編纂の興津町誌によると、秋葉三尺坊は天明六年(1786)に勧請され、
さらに、文政年間の再興の際、金毘羅権現と石尊権現も勧請されたという。
このためか、静岡市の地形図には金毘羅神社として記載されている。
長らく社護神社の社殿だと思い込み、探し求めていた祠であり、ついに実物を見ることができたのは感慨深い。
さて、最初に秋葉権現に来たのは、ここから旧瑞雲院境内地に至ることができるのではないかと考えたからである。
前回は山頂方面に大回りして農道経由でアクセスしたが、
秋葉権現の位置はかなり旧瑞雲院境内地に近いため、山中の道がつながっていることを期待した。
境内を一通り確認した後に社殿の裏を覗くと、その先にやはり道が続いていた。
相変わらず大量にあるジョロウグモの巣と格闘しながら道を歩く。
どうやらこの道は普段使われていないようだ。
少し歩くと、見覚えのある道に合流できた。
期待通り、旧社護神社地に隣接する、瑞雲院の旧境内地に続く道である。
社護神社跡地
遺構らしきものが残っていないのは前回の踏査でわかってはいたが、写真を撮ることもできていなかったので再訪した。
この平場にあったとしか考えられないが、やはり何ら痕跡はない。
これまでに見た社護神社の写真には、石段や石垣が写っているものもあり、
あまりにも何も残っていないことに釈然としない思いが残る。
しかし、入江氏が発見した清見寺を示す「清山」と刻まれた石標は確認することができた。
耀海寺と清見寺の境内地の境界を示すものと思われる。
耀海寺
永正七年(1510)に身延山久遠寺十二世円教院日意上人が開創した日蓮宗寺院である。
改宗以前は、平安中期以降に天台修験(本山派)から真言修験(当山派)傘下に入り、
「林陽坊」と号す一大修験道場として栄えたという。
後には、身延山直末として円教坊、本林坊、本静坊の三塔中に、石塔寺、本立寺の二寺を有する中本寺、
また慶長年間には地区における身延山の触頭となり、
旧茨原神社社殿となった祈祷殿や妙見宮、七面宮、日朝堂など多数の堂宇を有し、
清見寺から興津川までの境内地を有したという。
神仏分離に伴い、客殿と庫裏と小堂のみとなったが、短期間で「夏心堂」を始めとする諸堂宇が整えられ、寺勢も再起した。
ところが、明治二十二年、東海道線開通に伴い地所を提供したことで、山門を失い、境内は線路によって分断されてしまった。
考察
これまでに得られた情報を総合すると、社護神社は茨原神社と同様に、かつて耀海寺の管理下にあったようだ。
「清山」の石標の存在が示すように、鎮座地は清見寺境内と耀海寺境内の境界付近だったと思われ、現在の清見寺町と興津本町の境界でもある。
清見寺と耀海寺の両巨刹の勢力がせめぎ合った場所であり、社護神社はその境界神として鎮座していたように見える。
「社古地」はシャグジか
さて、踏査中に立ち寄った興津図書館で、昭和三十六年に清水市との合併を記念して発行された興津町誌を見つけた。
県立図書館には収蔵されていない初見の史料である。
そこに、社護神社は「道祖神を祭る」とあった。
さらに、東海道分間延絵図の興津宿には、社護神社とは別の「社古地ノ森」の記載もある。
こちらは現在の興津駅付近にあったようだ。
こうしたことから、耀海寺は「社古地」を「創建の旧地」と位置付けていたものの、
地域においてはシャグジとして扱っていたことに疑いはないと思われる。
「社古地」は字義を踏まえれば「古い社があった地」と理解するのが自然であり、シャグジであることとも矛盾しない。
県内の現存のシャグジに「社古地」表記のものは見当たらないが、
例えば岐阜県笠松町に、検地に使った道具を祀るという「御社古神跡」があり、その小字名はまさに「社古地」である。
なお、「興津三十年誌」では、社護神社の祭神を天照大御神、猿田毘古神とし、貞享三年(1686)の古図に「社護神」の記入ありとしている。
古図については確認できていないが、事実であれば、明治の神仏分離で「社古地」が独立した際に、
それまでの「社古地」から、古称の「社護神」に改めたのかもしれない。
耀海寺と社護神社の関係
延暦十年(791)に不動明王とともに「信州諏訪明神」を祀ったという、耀海寺創建にまつわる伝承を踏まえれば、
シャグジも身延道経由で同時期に当地に伝来していた可能性があるのではないだろうか。
これまでの経過を通じ、神仏分離後の状況から本来のシャグジ信仰の姿を推測することの困難さを改めて実感したが、その実相を垣間見ることはできたような気がする。
入江紅鶴様に改めて御礼申し上げる。
2023/10/7再踏査
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