概要
静岡八幡神社は推古天皇五年(597)創建と伝わる静岡市内随一の八幡社である。
鎮座する山名も八幡山、その西側に広がる大字の名も八幡であり、地域を象徴する旧郷社である。
鎮座地の八幡山には、戦前まで二十基近い古墳があったとされる。
このため、神社の実際の創建年にかかわらず、当地が六世紀の時点で信仰の場だったことは確かだろう。
また、八幡山に築かれた八幡山城は、駿河守護今川範政が応永十八年(1411)頃に築いた城である。
文明八年(1476)、今川家の家督争いに伊勢新九郎(北条早雲)が仲裁に入り、八幡山城を修築の上、麓に居館を構えた。
長享元年(1487)には今川氏親(義元の父)が家督を継いだとされる。
そして、八幡神社について、駿河國新風土記には
「此宮の伝にも源義家朝臣再建すといふ、
今の宮は永正十四年(1517)、今川氏親朝臣の修造する所なり、棟札今に存す」とある。
その後、永禄十一年(1568)に駿河に侵攻した武田信玄によって八幡神社は焼き討たれたが、
徳川家康の命により、慶長十八年(1613)には拝殿、神楽殿、桜門、諸末社等が修造されている。
境内社
静岡八幡神社には江戸期の時点で多くの境内末社があったが、現在は更にその数を増している。
以下、本殿西隣の社殿一から、本殿に近い順に記載する。
・社殿一
荒神社
日枝神社(山王社)
・社殿ニ
若宮八幡神社
胸形神社
衢社(庚申社)
廰宮
・社殿三
渡神社
稲生神社
・以下は各社独立社殿
本居神社
山神社
津島神社(天王社)
三峰神社
また、八幡字大屋敷にあった左口神社(八幡神社末社)を明治四十一年に合祀している。
祭神は保食神である。
踏査結果・考察
静岡八幡神社は宮司が常駐する神社であり、境内の管理が非常に行き届いている。
拝殿から本殿に向かう「男坂」の階段は安全のため立入禁止となっており、
本来は下り用とされる「女坂」の階段を登って本殿に参拝した。
そして、シャグジ関連の境内社がないか、本殿西隣の社殿から、一社ずつ順に確かめていく。
それぞれの境内社に付された丁寧な解説が大変ありがたく、勉強になる。
荒神社から廰宮までの社殿は本殿の周囲にあるが、その他の境内社は少し離れた場所にあった。
初めてその名を知る廰宮や本居神社の由緒は興味深い。
しかし、左口神社は本殿に合祀され、境内社には含まれないようだ。
少し残念に思いながら、最後に渡神社と稲生神社の相殿を参拝した。
こちらの社殿にも解説が掲示されている。
渡神社は静岡市内に他にも数社あるが、正体がよくわからないでいたところ、
当社の願果たしの供え物「おりかけ」に関する「ふるさと百話」が掲示されており、
記事中の「疫病神に対する守護神」との解説に膝を打った。
左口神社
相殿の稲生神社は社殿内の木札に「稲生神社 保食神」とあるが、解説では「稲荷神社」とされている。
そして、この解説文の中に、左口神社の由緒に関する記載もあった。
冒頭から「稲荷神社といわれた」と明言していることにまず驚く。
こちらの左口神社の祭神は保食神なので当然かもしれないが、
どうやら農村部の駿河シャグジは、稲荷としての役割がかなり明確だったようだ。
その上で、いわゆるミシャグジ信仰との関連にも言及し、
本殿に合祀されたので本来は社殿が存在しないことにも触れている。
つまり、偶々稲生神社があったので、関連事項として記載したという体裁である。
また、この左口神社には「貧乏神信仰、辻斬り伝説」があったとしている。
他のシャグジでは聞いたことのない伝承で興味深く、いずれ詳細を確認したいと思う。
静岡八幡神社は静岡市を代表する八幡社であり、
シャグジが祀られるような性格の神社ではないと思い込んでいたため、
最近まで左口神社が合祀されていることに気づかなかった。
見つけられたのは、令和四年にリニューアルされた国会図書館デジタルによる、全文検索のおかげである。
2023/3/11踏査
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