概要
天皇神社は旧益津郡中村の氏神である。
江戸期までは天王社と称したが、祭神が後醍醐天皇(尊治尊)であることから、明治期に天皇神社に改称した。
かつては焼津駅の百数十mほど北側の字丸田に鎮座していたが、区画整理に伴い、昭和四十四年に現在地に遷座。
創立年月は、焼津町誌や志太郡誌等では不詳とされているものの、志太地区神社誌には延元二年(1337)創立とある。
祭神については、近世俗書で親子ともされる宗良親王、興良親王のいずれかが、遠江から南朝方の安倍城主、狩野貞長らを頼り、
駿河に渡御した際、当地に仮の御所を建てたことから、里人が御徳を慕い、後醍醐天皇を勧請したと伝わる。
さて、旧益津郡中村にあった神社について、
駿河志料は、天王社、西宮(祭神吉野蔵王権現)、社宮司社としている。
また、同時期の万延元年の中村絵図にも、天王社、西之宮、弁天のほか、「左口松」が見える。
しかし、現在、かつて中村があった区域内にシャグジの痕跡は見当たらない。
郷土誌等にも、社宮司社、左口松のその後の行方に関する記載はない。
さらに、神社誌等を確認しても、氏神である天皇神社に合祀された様子もない。
通常はこれで万事休すである。
ところが、益津郡のシャグジの取りこぼしがないか、今井野菊氏の踏査結果を確認していた際、
「益津郡中村天王山内西ノ宮口」に所在する「佐宮司社」が記録されていることに気づいた。
この所在地は、明らかに現在の(移転前の)天皇神社を指している。
今井氏は踏査の過程で、社宮司社の天皇神社への合祀を確認できたのではないだろうか。
(「焼津町誌」、「焼津市史民俗編」、「志太地区神社誌」、「静岡県志太郡誌」)
踏査結果・考察
中村にあった神社のうち、西宮と社宮司社は天皇神社に合祀された可能性が高いが、
神社誌等に合祀の記録はなく、今井氏の記録以外に明示した資料は見当たらない。
つまり、あとは現地を訪問するしか確認手段はない。
焼津駅、焼津港周辺は、区画整理により江戸期から大きく変貌しており、
天皇神社も昭和時代に移転したことから、往時の痕跡の残存はあまり期待していなかった。
しかし、現地を訪問すると、鳥居脇にある地名碑には、真っ先に「西之宮」が刻まれていた。
さらに、境内には移転新築の際に建立された由緒碑もあり、
そこには境内社に蔵王神社(別称 西宮神社)があることも明記されていた。
境内社殿には、秋葉神社、津島神社、稲荷神社が祀られている。
ここまではよかったが、残念ながら、シャグジ合祀の証拠を見つけることはできなかった。
では、今井氏はどのようにして「天王山内西ノ宮口」のシャグジを知ったのだろう。
「西ノ宮口」とあるからには、先に西宮社に合祀され、さらに天王社に合祀されたのだろうか。
あるいは、移転前の天皇神社ではそれが確認できたのかもしれない。
なお、天皇神社近くの瀬戸川沿い、中公園グラウンドの裏側に大きな松がある。
この松がある場所は、宗良親王、興良親王の御所の遺跡とされるため、「御所松」と呼ばれている。
2024/8/25踏査
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