概要
龍雲寺は室町時代中期の守護大名、今川範忠を開基とする臨済宗妙心寺派の寺院である。
開山当初は山号を「瑞現山」と称したが、諏訪神社東方にあった常楽寺を後に合併した際、
その山号である「岩戸山」を取り入れ、以来、「岩戸山龍雲寺」と称している。(「蒲原町史」より)
龍雲寺関連の資料にシャグジにまつわる記載は見当たらないが、
清水区由比在住の郷土史家、望月良英氏による「清水区由比阿僧の歴史」の中で、
由比周辺のシャグジの一つとして「岩戸山龍雲寺の裏山中腹にあった社口大明神」が紹介されている。
この「社口大明神」は江戸期の地誌には記載されていない。
どのようなシャグジなのか、様々な資料を当たってみたが、望月氏による記述以外の情報を得ることはできなかった。
この情報だけで現地踏査するのは心許ない。
ただ、住宅地図を確認してみたところ、
龍雲寺の裏山に入った場所に、路傍祠と記念碑の地図記号が記されていた。
地図記号があったのは「裏山中腹」というよりも山麓に近い場所であり、
これらの記号が社口大明神を示す可能性は必ずしも高くないが、
とにかく直接確認したいという思いが強まり、現地を訪問することにした。
踏査結果
龍雲寺本堂裏の社殿
龍雲寺裏には御殿山広場に至るルートがいくつかあるが、まずは直接境内の裏から入ってみることにした。
本堂の裏に回ってみると、建てられてまだあまり年月が経っていない様子の二つの社殿があった。
中を覗いてみると、左側の大きめの社殿には不動明王像が置かれている。
右側の社殿には大小二つの小祠が入っており、一つには金狐像が配されていた。
しかし、もう一つの祠の正体はわからない。
いずれにせよ、神仏分離の際に本堂で祀ることができなくなった神々が寄せられているものと思われた。
龍雲寺裏山の探索
社殿の前を通り過ぎ、いよいよ山中に入っていく。
ほどなく、地図記号にあった記念碑と思われる石碑が見えてきた。
詳細は不明だが、日軽金関係の殉職者の方々を慰霊するための石碑のようだ。
更に進み、別のルートとの合流地点を左に曲がる。
すると、すぐに立派な石鳥居が目に入った。
路傍祠らしからぬ存在感を示す鳥居であるが、位置的にはこれで間違いないだろう。
しかし、これが「社口大明神」だとすれば、その存在がもっと世間に知られていそうなものである。
さて、どのような社殿があるのだろうか。
期待しながら鳥居の場所に到着した。
ところが、鳥居以外の建造物は見当たらない。
ただ、よく見ると、鳥居の奥には建造物の土台や建材らしきものが散らばっている。
どうやら社殿は既に倒壊してしまったか、撤去された後のようだ。
鳥居の前には、かつての参道の痕跡も見受けられるが、今はまったく使われていない様子である。
この廃神社が社口大明神だったのだろうか。
中腹とは言い難い地点であり、別の神社なのかもしれないが、
現状はいかにもシャグジらしい状態とも言え、判断しきれない。
あるいは、本堂の裏にあった正体不明の小祠がここから遷されたシャグジなのかもしれない。
確かめるには聞いてみるしかなさそうだ。
龍雲寺での聞き取り調査
龍雲寺に戻ると、境内を掃除されている僧侶の方がいらっしゃったので、
こちらのお寺に社口大明神が祀られていないか、早速尋ねてみた。
質問の意味がすぐには先方に伝わらず、しばらくの間の後、
「あ、しゃくしのことですか」との答えが返ってきた。
やはり、龍雲寺の本堂裏で「しゃくし」を祀っているとのことで、先ほどの正体不明の祠がそれであった。
改めて社殿まで案内していただき、扉を開けて祠を見せていただいた。
教えていただいた内容によれば、檀家の方がどこからかもらってきた神様で、
最近まで山中の鳥居があった場所に鎮座していたが、
山中では維持管理が困難のため、十年ほど前に本堂裏に社殿を建てて遷したとのことである。
以前は杓文字が祀られていたが、遷座の際に確認したところ朽ちていたため、別に保管しているそうだ。
祠の扉も開けていただいたが、中には何も納められていなかった。
また、隣の稲荷も同じく山中から遷したものだという。
なお、隣の社殿の不動明王はかなりの古像であり、定期的に開帳しているとのことである。
考察
龍雲寺のシャグジは「大明神」を名乗っていることから、
遅くとも神仏分離以前、江戸末期までには勧請されていたものと思われる。
具体的な御神体を祀っているわけでもないので、お寺としても扱いが難しいようだ。
一般に、寺院で祀られていたシャグジは江戸期の地誌にも記録されておらず、
既に忘れられてしまったものの方が多いと考えられる。
こうした中、今に至るまで丁重にシャグジを祀っている龍雲寺は、県内においては希少な事例ではないかと考えている。
2023/5/4踏査
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