概要
小坂日枝神社は旧有度郡長田村の村社である。
かつては山王社と称したが、明治五年に日枝神社に改称した。祭神は大山咋命
駿河記によれば、造営祭式等は建穂寺が受け持ち、正月には左義長祭も執り行ったという。
小坂地区は日本坂峠東麓の静岡市側にあり、明治二十二年の長田村への合併以前は有度郡小坂村だった。
西麓の焼津市側は花沢の里である。
さて、駿河國新風土記には、小坂に左口社があったことが記されている。
古代の東海道である東路を構成する、日本坂西麓の東益津や、
用宗、丸子に多くのシャグジがあることから、
同じく東路沿いの小坂でもシャグジが信仰されていたことは間違いない。
なお、日枝神社は佛谷山安養寺に隣接している。
安養寺は鎌倉期の文治三年(1187)に源頼朝の家臣により創建され、今川、徳川にわたり保護されてきた。
また、日枝神社は境内に樹齢三百年以上とされる大楠があることで知られる。
(「長田村誌」、「静岡市神社名鑑」)
踏査結果
小坂にかつてあったシャグジについて、
現存する神社の由緒や地域の伝承に、その痕跡は見い出せない。
江戸期の地誌においても、駿河志料や駿河記には記録がなく、
わずかに駿河國新風土記に左口社が見えるのみであることから、早い段階で失われたのかもしれない。
しかし、小坂には多くの庚申塔のほか、地蔵尊や塞ノ神など、
かつての民間信仰にまつわる史跡が丁重に残されている。
こうした地域の左口社が簡単に破壊されてしまったとも考えにくい。
だとすれば、名もなき祠として今も路傍に佇んでいるのではないか。
その思いから、折りに触れ、小坂の住宅地図やストリートビューを眺めるようになった。
謎の祠を探る
ある時、ストリートビューで気になる祠を見つけた。
一般の地図には記されず、住宅地図に祠を示す地図記号はあるものの、正体がわからない祠が二つ並んでいる。
峠道沿いにあり、単なる屋敷神には見えない。
もしや、これが左口社ではないか。
ということで、現地踏査に至った。
山肌の斜面沿いに設けられた急な階段を登り、近くで祠を観察する。
予想はしていたが、何を祀っているのかわからない。
しかし、祠の脇に石灯籠が一基あり、年号らしきものが刻まれている。
「安正文三辰」つまり、安政三年(1856)に建立されたもののようだ。
年号の隣に「神社」の文字も見えるが、苔に覆われ他の文字が読み取れない。
崖上にあるので、近くに寄るのも少々ためらわれる。
「神社」として扱われているならば、地域の方が社名を知っているだろう。
そう考え、周囲のお宅の方何人かに尋ねてみた。
「昔から祀ってるけど何の神様か知らない」
「別の地区の人が祀っているからわからない」
「今は祭とか何にもしていない」
なんと、いずれも御存知ないとのことだった。
偶々尋ねた数人が知らなかっただけではあるが、当てが外れてしまった。
やむを得ず祠に戻り、石灯籠を至近距離から再度観察する。
上は「奉納」下は「神社」と読めるが、肝心の社名がやはり読み取れない。
文字配置から見て、一文字か二文字以内ではあるだろう。
指で探ってみる。
・・・「山?」
「山神社」か!
残念。シャグジではなかった。
祠は二つあるので、一つは別の神を祭っているのかもしれないが、
現地でこれ以上の手がかりは得られそうにない。
気落ちしたが、せっかくなので、もう一つ気になっていた日枝神社を訪問するべく、祠を後にした。
日枝神社に向かう途中には路線バスの転回場があり、小坂の観光案内図が掲示されている。
よく見ると、先ほどの祠の場所に、しっかりと「山の神」と記されていた。
何のことはない。手間をかけて正体を突き止めたつもりが、元から公表されていたという顛末だった。
とはいえ、先ほどの祠がシャグジでないことは更に明確になった。
こうなると、後は日枝神社に望みを託すしかない。
小坂日枝神社
言うまでもなく、日枝神社は比叡山所縁の山王信仰の神社である。
隣接する安養寺は曹洞宗だが、古くは天台宗寺院だったとも考えられる。
そして、シャグジも同様に、天台宗寺院との関係性が垣間見える。
目星をつけていたシャグジ候補の当てが外れてしまった今、
天台宗所縁の日枝神社にシャグジの痕跡を求めざるを得ない。
さらに、一つ気になっていたのは、駿河國新風土記の
「左口社 社中に大楠あり」
との記載である。
小坂日枝神社にも大楠がある。
一方で、駿河國新風土記には、日枝神社の前身である山王社に大楠があったとは記されていない。
ということは、
日枝神社の大楠が立っている場所は、かつて左口社の境内だったのではないか。
日枝神社が他所から遷座したとの記録はなく、創建時からの鎮座地と思われるため、
左口社の鎮座地に日枝神社が遷ってきたというわけではなく、
左口社は日枝神社の境内社のような存在だったのではないだろうか。
ほどなく日枝神社に着いたので、左口社の痕跡を探してみる。
しかし、境内社などは見当たらず、由緒書もない。
楠は確かに立派な大楠だが、日枝神社の境内としか言いようがない場所に立っている。
日枝神社でも左口社の行方はつかめず、消化不良のまま、現地踏査は終了した。
考察
小坂のシャグジ探索はほぼ断念してしまったが、
その後、まだ十分に調べきれていない基礎資料があることに思い至った。
大正期に編纂された「長田村誌」である。
未読ではなく、丸子や用宗を含む長田地区のシャグジを一通り確認はしていた。
ただ、シャグジ関連の記載がなかった小坂については読み飛ばしていたのである。
ということで、長田村誌の小坂日枝神社の項を再度確認してみた。
改めて読むと、静岡市神社名鑑にはない、相殿に関する記載がある。
日枝神社の相殿は、「宇気持神、少彦名命、素戔嗚尊」とのことであった。
さて、この相殿は何を意味しているのか。
駿河國新風土記は、小坂に熊野権現社(伊雑宮末社、天神社末社)、
稲荷社、天王社、左口社、山王社があるとしている。
このうち、熊野権現社と山王社(日枝神社)は現存する。
現存しないと思われるのは、稲荷社、天王社、左口社である。
このことから、稲荷社祭神の宇気持神と、天王社祭神の素戔嗚尊が、日枝神社に合祀されたと考えられる。
すると、残る左口社の祭神が少彦名命ではないだろうか。
以前、長田村誌を確認した時点では、少彦名命とシャグジを結びつける発想はなかった。
しかし、後に旧大井川町において、少彦名命を祭神とするシャグジを知ることとなった。
吉永八幡宮境内社に合祀された社子神社と、上小杉八幡宮境内社の社護神社である。
これらの例を踏まえれば、単なる消去法だけではなく、
左口社祭神の少彦名命が日枝神社に合祀されたと考えることができる。
なお、合祀前の左口社の旧地は未だ不明だが、
大楠の存在から、やはり山王社と並び祀られていた可能性もあるのではないだろうか。
2024/11/24踏査
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