概要
中里若宮八幡宮は井伊直孝の産土神として知られる。
天正六年(1578)創立とされ、御神体は直孝の馬上の木像とのことである。
当地は朝比奈川に接しており、元は大井神社だったという。
しかし、直孝が寛永六年(1629)に出生地である中里に若宮八幡宮を再建し、
大井神社は次第に末社として扱われるようになったようだ。
直孝の父は徳川四天王の一人であった井伊直政である。
新井白石が著した「藩翰譜」によれば、母は直政の正室である唐梅院の侍女であったが、
直政の子を身ごもったことを知った唐梅院により、侍女の父親である印具徳右衛門の元に帰されてしまった。
徳川家康の関東移封に伴い、印具が仕える松平康重が武蔵騎西(現 埼玉県加須市)に移封となり、
印具も身重の娘と共に関東に向かう道中、娘が当地で産気づき、直孝を出産したという。
なお、中里には直孝が産湯を使ったという産湯井が今も残る。
井伊氏の本貫地である井伊谷から続く、井伊氏と井戸の深い関係性がうかがえる伝承である。
境内社に大井神社のほか、津島神社、秋葉神社、白髭神社、社護神社がある。
(「東益津村々誌」、「焼津市史民俗編」、「志太地区神社誌」)
踏査結果・考察
境内社のうち、大井神社、秋葉神社、白髭神社、社護神社は長屋式の社殿に寄せられていた。
また、津島社は志太地区の例に漏れず、独立した社殿を有する。
中里は伊勢神宮の荘園であった方上御厨(かたのかみのみくりや)を構成する十二の村の一つだったと推定されている。
また、中里若宮八幡宮の周辺では須恵器や古代の井戸枠等が発掘されており、古くから農耕が行われていたことがわかる。
一方で社護神社に関する由緒は江戸期の地誌などには見当たらない。
しかし、「高草山麓のむかし話」によれば、
かつて神社前にあった二軒の旧家の敷地それぞれに「おしゃもつあん」が祀られていたという。
こうした屋敷神だったシャグジが若宮八幡宮に寄せられたのかもしれないし、
あるいは大井神社とともに古くから当地に祀られていたのかもしれない。
なお、「高草山麓のむかし話」では、出土した井戸枠の登呂遺跡との類似性から、
このシャグジが弥生時代から祀られていたのではないかと推論している。
しかし、井戸枠の年代を弥生時代とし、
井戸枠とシャグジを同時期のものとすることに具体的な根拠はなく、創祀時期の推定は難しい。
ただし、御厨だったとされることや、須恵器が出土していることから、
中里には遅くとも平安時代には人が居住していたと考えられる。
(塩澤藤雄「高草山麓のむかし話」、「焼津市誌」)
2022/12/10踏査
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