概要
大覚寺下八坂神社は大覚寺下村の氏神であり、明治八年まで牛頭天王社と称した。
祭神は須佐之男命。
鎌倉期の弘安三年(1280)、山王神社、八王子神社、左口神社と同時に勧請されたという。
明治七年に合併した字砂田の山王神社は安産の神として信仰され、現在は当社の背中合わせに鎮座している。
享保七年の下大覚寺村高反別指出帳では、左口神社は「さくし」と記されている。
また、天王社のほか、三王、八王子、井大明神、水神の小宮について記載がある。
天王社、さくし社、水神社の祢宜は弥右衛門で、名主を務めていた有力農民だったという。
大覚寺上下は、旧焼津村が明治二十二年に成立した時点では、
現在は藤枝市である西益津村に属していたが、
昭和二十九年の藤枝市成立時に焼津市に属することになった。
大正二年の西益津村誌には、
「祭神須佐之男命、配神、八王子権現、左杓司、山王権現等合祀」とある。
(「焼津市史 民俗編」、「志太地区神社誌」、「志太郡西益津村誌」)
踏査結果・考察
八坂神社の境内には、江戸期に村内で祀られていた小祠が集められていた。
一社ずつ大きく社名が刻まれた同規格の石祠が並び、大変わかりやすい。
高反別指出帳に見える八王子社、左口社、水神社のほか、
御鍬社、榛名社、稲荷社、秋葉社が寄せられている。
このほか、社名のない石祠がもう一つあった。井大明神の祠だろうか。
下大覚寺村高反別指出帳は、焼津市内の江戸期の村の最も詳細な史料とされ、
当時の村の暮らしぶりがうかがえる。
現在も当時からの信仰を丁寧に受け継いでいることに敬意を表したい。
さて、大覚寺の左口神社は鎌倉期の勧請と明確に伝えられている。
中世鎌倉期創建の伝承を持つシャグジとしては、増神明社(佐栗神社)に続く二つ目の例である。
シャグジ信仰について、駿国雑誌は「其事慶長年中巳後より始る也」としているが、
少なくともこれら一部の駿河シャグジについては、実際に中世に起源を求めてもよいのではないだろうか。
2022/12/10踏査
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