概要
入江白髭神社は、往古より入江町入江の氏神として字元屋敷に鎮座している。
伝承によれば文治年間(1185~1190年)の創立という。
当初、神功皇后を勧請して大渡明神として祀り、後に武内宿禰や上下大明神などを合祀して産土神としたとされる。
境内社は以下のとおりだが、創立年月等詳細は不明である。
大渡里神社(水波比女命)
伊勢大神社(天照皇大神)
津島神社 (速須佐之男命)
左宮司神社(猿田彦命)
金刀比羅社(大己貴命)
また、通一丁目にあった荒神社(軻久突智命、奥津比古神、奥地比賣神)と金山神社(金山彦命)を明治四十三年に合祀している。
(大正二年「安倍郡入江町誌」より)
踏査結果・考察
入江白髭神社の境内社である左宮司神社については、「安倍郡入江町誌」以外に資料を見つけられない。
江戸期の各地誌にもまったく記載されていないようだ。
実は、当社のシャグジに気づいた経緯も資料からではなく、白髭神社として調べていたら偶々由緒書に記されていたというものである。
以前、資料等にまったく記載がなく、参拝したらシャグジが合祀されていたという神社の例もあった。
こうしたことは、駿河におけるシャグジの遍在を示しているのだろう。
由来がはっきりしないのは残念だが、境内社として残されているだけでも意味がある。
ところが、そのように一般論で片付けてしまう寸前で、入江町に「院内町」があったことに気づいた。
「院内町」とは、かつて陰陽師が居住した地区のことである。
横田町西宮神社の記事でも述べたが、袋井市岡崎の左口神社のように、院内が信仰する北辰妙見はシャグジと同一視される場合がある。
このため、横田町のような明確なつながりを示す根拠はないものの、
入江の左宮司社も院内(陰陽師)の信仰に由来する可能性があると考える。
なお、駿河國新風土記によれば、当地の院内は古くは「声聞師」とされていたとのことである。
2022/10/15踏査
コメント
ごんぶと様
興味深く拝読させていただきました。
さて、「東海道分間延絵図」文化3年(1806) の江尻宿を眺めておりますと、当地は白鬚ではなく「上下大明神」となっております。これは明治まであと半世紀という近代に幕府直轄で成立した絵地図ですから、これを単に表記違えや認識違いで見過ごすことはできません。
つまり当社は江戸期は上下大明神であり、「白鬚神社」としたのは、ごくごく最近のことで、明治以降に主祭神を変更し全体をリビルド、現在の縁起を創作したという流れになると予想されます。(建長7年(1255年)の白鬚大明神の棟札があるとのことですが、少なくとも江戸期は主祭神ではなかったと予想されます。)
また現在はサブ扱いである当社の上下大明神ですが、一応、縁起によると京都の賀茂神社(加茂神社)より勧請。上賀茂と下鴨で上下です。と、半ば強引な解釈がなされておりますが、ただ、ここでいきなり京都が登場する違和感と同時に、だったら本社と祭神が違うんじゃね?という明らかな矛盾もあります。
では、当社の上下大明神の祭神は何か?と言えば「建御名方命」。
結論から言いますと、当社の上下大明神は賀茂ではなく、「諏訪明神」上社・下社ではないだろうか?というのが、拙の考えです。
また、当地の巴川対岸には「江尻城」がありました(現清水江尻小学校)。
ご存知のように武田は「南無諏方南宮法性上下大明神」と筆にある諏方法性旗と呼ばれる軍旗を掲げ、諏訪明神への崇敬が熱いことでも知られております。
穴山信君(梅雪)による天正10年(1582)の開城から慶長6年(1601)の廃城までの約20年間。江尻城は徳川の手に渡っても地域の主要施設として使われ続けたでありましょうし、元は武田の城であったことは周知の事実です。
記事中にもございます「安倍郡入江町誌 第三編(大正2年)」に掲載されている上下大明神の棟札写しによると、当地に社を新造して「御遷宮」されたのが慶長9年(1603)とされています。もしこれが事実ならば、実に廃城から3年後。
時の代官、長谷川長綱は武田への供養とリスペクトを兼ねて、これまで江尻城に鎮座していた上下大明神(諏訪明神)を当地に遷宮した…。
以上。妄想“(入江)上下大明神縁起”でございますが、単に京都から勧請したとするよりも郷土の歴史や地域性も考慮して、説得力もありそな?(爆)
さて、この遷宮に関してでございますが、やはりこうした事業には、貴殿が記事中でご指摘されていた院内町(字、通三丁目にして、現在の追分一丁目付近)の
陰陽師の存在は欠かせなかったと思われます。
と言いますのも、院内町からもほど近い、現桜橋4丁目の「文殊稲荷神社」は元々、江尻城天守閣にあった文殊菩薩を当地に勧請したのが始まり、との伝えがあります。これを行ったのが当の陰陽師とのこと。(今の感覚ですと、菩薩ゆえ仏事かと思いきや寺院担当の仕事ではなかったことに、密教や習合的な要素が感じられて面白いと思います。)
えっと、(汗)
シャグジとは話題が大分逸れてしまいましたが、寺院も多く、やや呪術的な匂いさえ漂う雑多な東海道筋。江尻宿は決して、追分ようかんだけじゃないよ?ということで。調べ甲斐のある地区だと思います。
長文失礼致しました。
上下ってなんだろうと思ってましたが上社と下社!説得力ありますね。
文政3年(1820)の駿河記では「白髭神社 相殿上下神社」とありますが、その棟札については御指摘の慶長九年の上下大明神が記載されています。
・・・今、改めて駿河記をよく読むと、
「大渡神は則武内宿禰命(白髭神社)なり。当里の産土神にて往古より斎祭る所なり。後に穴山梅雪入道江尻城に居る頃、信濃諏訪上下明神を此社に相殿に祭ると伝云たり。」
とあり、やはり入江様のお考えの通り諏訪の上下ですね。由緒書はどこから引っ張ってきたんでしょう。
東海道分間延絵図も確認し、またお返事の続きを書きたいと思います。ありがとうございました。
遅まきながら「東海道分間延絵図」の上下大明神も確認しました!
しかしよく見ると「下上大明神」になってますね・・・。なぜでしょう?
いずれも分間延絵図より時代が下りますが、改めて駿河国新風土記、駿河記、駿河志料、の記載を比較してみますと、
○駿河国風土記(1816~1834)
「下上大明神社 加茂下上の神をまつる、此町の産神なり」
○駿河記(1820)
「白髭神社 相殿上下明神」
「棟札曰大日本國駿河國有度郡入江庄江尻縣。奉新造立上下大明神一宇。慶長九暦三月如意珠日。」
「摂社 大渡明神 大渡神は則武内宿祢命なり。当里の産土神にて往古より斎祭る所なり。後に穴山梅雪入道江尻城に居る頃。信濃諏訪上下明神を此社に相殿に祭ると伝云たり。」
○駿河志料(1861)
「白髭社 相殿加茂上下大明神 (以下駿河記と同内容)」
「里人云、大渡明神は白髭明神にて、往古より産土神として祭れり」
駿河国新風土記と駿河志料に「加茂下上(上下)」の記載もありますので、由緒書はここから採用したのかもしれません。
それから諏訪は一般に「上下」、賀茂は「下上」と記すのが慣例のようでして、分間延絵図に「下上大明神」とあったので賀茂に寄せたようにも思えます。
しかし棟札は「上下大明神」とのことですし、武田との関係性を踏まえると、やはり諏訪の上下と考える方がしっくりきますね!