横内のおしゃもっつあん(杉大明神)

藤枝市横内字平松

おしゃもっつあんの霊木

概要

横内のおしゃもっつあんは、藤枝市横内にあったという杉の霊木である。

当地は江戸期における志太郡横内村に当たる。
横内村は享保二十年(1735)から幕末まで美濃岩村藩領となっており、
駿河国十五ヶ村に所領があった岩村藩が陣屋(横内陣屋)を置いたことで知られる。

横内陣屋跡、陣屋稲荷
横内陣屋跡、陣屋稲荷

氏神は白髭神社
横内村の開村者とされる近江国滋賀郡打下村出身の豊臣秀吉家臣、池田孫次郎輝利が滋賀から勧請したと伝わる。
白髭神社境内には、天満宮、金比羅宮、稲荷社、乳母神、津島社、春埜社も鎮座する。
なお、シャグジに関連する境内社はないと思われる。

横内白髭神社
横内白髭神社

さて、「高草山麓のむかし話」によれば、昭和五十九年当時、横内のおしゃもっつあんは枯死した大杉の古株が残り、注連縄が巻かれていたそうだ。
また、同書には以下の内容の逸話が記されている。

「終戦後、横内では伝染病が流行して一向に終息せず、住民は困窮していた。
昭和二十八年、当地を通った旅の行者が妖気を感じ、霊木の傍らに祀られていた東方薬師を一心に祈念したところ、「おしゃもっつあんの霊木を粗末にしている」とのお告げがあった。
お詫びの祈願を続けたところ伝染病は収まり、その後、横内の住民はおしゃもっつあんの霊木を大切にしている。」

こうした逸話もあってか、この杉の皮を煎じて呑むと、風邪の薬になるとのことである。

なお、この伝染病の流行を契機に、横内では昭和二十七年、当時としては珍しい簡易水道を整備し、劇的に衛生環境が向上したそうだ。

(塩澤藤雄「高草山麓のむかし話」、柴田芳憲「藤枝市横内四百年史」)

踏査結果

横内橋と横内新橋

「高草山麓のむかし話」によれば、おしゃもっつあんの霊木は「国道一号線横内橋の下り線左側の堤下」にあるという。

同書執筆当時の横内付近の国道一号線は現在県道381号線になっており、朝比奈川を渡る橋は「横内新橋」である。

一方で、横内新橋の100mほど西側に架かる「横内橋」は、江戸期の東海道であった県道81号線が通る橋であり、まずはどちらの橋を指すのかを確認する必要がある。

旧東海道の横内橋と旧国道一号線の横内新橋
旧東海道の横内橋と旧国道一号線の横内新橋

おしゃもっつあんが東海道沿いにあったとすれば「横内橋」だが、
「国道一号線」とあるからには「横内新橋」と考える方が自然かもしれない。

まずは旧東海道の横内橋から調査を始めた。

横内橋上り線岡部宿側、かつて横内陣屋があった橋場町に、横内の歴史案内板が建てられていた。
案内板を見ると、旧国道一号線「横内新橋」の下り線藤枝宿側に、橋から少し離れて「平松観音」とある。
しかし、おしゃもっつあんや東方薬師の標示はない。

横内歴史案内板

川除地蔵

横内橋下り線の岡部宿側には史跡の類は見当たらないが、藤枝宿側、橋向町の堤上には川除地蔵があった。
横内には朝比奈川沿いの各地に川除地蔵が置かれており、度々深刻な洪水被害を受けてきた歴史を伝えている。

上:橋向 川除地蔵 左:堂之前 疣取地蔵、川除地蔵 右:橋場 川除地蔵、馬頭観音
上:橋向 川除地蔵 左:堂之前 疣取地蔵、川除地蔵 右:橋場 川除地蔵、馬頭観音

川除地蔵近くの堤下には石祠があった。
大杉の古株はなく、東方薬師もないが、あるいはこの石祠がおしゃもっつあんの遺跡なのだろうか。

石祠

慈眼寺

続いて横内新橋に向かうと、下り線の岡部宿側に慈眼寺の墓地があった。
旧東海道沿いの慈眼寺からは離れた位置にあり、「新墓地」とのことである。
新墓地とは言え古い墓石等も見受けられたが、おしゃもっつあんとの関連をうかがわせるものは見当たらない。

慈眼寺 右上は代官地蔵
慈眼寺 右上は代官地蔵

平松観音

では藤枝宿側はと言えば、揚水施設の周辺に各種の草木が伸び放題の状態であり、
たとえおしゃもっつあんの古株があったとしても埋もれてしまっているだろう。

草むらの先に数本の樹木が見える。
案内板に記されていた「平松観音」はあの辺りだろうか。
平松観音はおしゃもっつあんの伝承には登場しないが、せっかくなので訪問することにした。

横内新橋下り線 藤枝宿側
横内新橋下り線 藤枝宿側

近づいてみると、やはりここが平松観音だった。

平松観音 遠景
平松観音 遠景

森の中に二体の丸彫の如意輪観音像のほか、古い満願供養塔、馬頭観音像などが立ち並び、往時を偲ばせる雰囲気がある。
花や水が供えられ、地域では今も大切にされているようだ。

平松観音
平松観音

おしゃもっつあんの手がかりは得られなかったが、平松観音との出会いを収穫に、この日の踏査は終了した。

東方薬師如来

おしゃもっつあんの古株は既に失われてしまったのだろうか。
もう少し探ってみようと、踏査後、撮影した写真を見返してみた。

横内橋堤下の石祠にはやはりこれといった特徴はなく、元は屋敷神として祀られていたようにも思える。
では、横内新橋堤下の草むらに古株が埋もれていないかと目を凝らしてみても、何ら見出すことはできない。

そして平松観音。
様々な石造物の中心部に「東方薬師如来」の比較的新しい文字碑が据えられている。

平松観音2

・・・東方薬師?

東方薬師が平松観音の中にあった。
現地でしっかり見ているのに、「ここは平松観音」という前提に縛られ、頭の中でつながっていなかった。

ということは、東方薬師が元の場所から遷されていなければ、その傍らにおしゃもっつあんの霊木があったはず。
これは再度平松観音を調査しなければならない。

杉大明神

東方薬師ばかり気にして平松観音についての資料確認ができていなかった。
再踏査に当たって改めて資料を探すと、「藤枝市横内四百年史」に平松観音に関する記載があった。

「この平松には、如意輪観音の他に馬頭観音や、薬師如来それに札所巡りの供養塔等が安置されている。」

「薬師如来」としっかり書かれている。
さらに、以下の記載があった。

「杉大明神 以前ここに杉の大木があり、この皮が子供に「かんの虫」に効くと言われてお参りをした。」

「おしゃもっつあん」の名こそないが、「高草山麓のむかし話」の逸話と非常によく似ている。
この「杉大明神」こそ、おしゃもっつあんの霊木と考えてよいだろう。

そして、杉大明神もまた、現在は失われたとされている。
果たして再調査でその古株を見つけることができるだろうか。

(柴田芳憲「藤枝市横内四百年史」)

再踏査結果

一週間後、改めて平松観音の東方薬師と対峙する。
この文字碑自体は昭和五十四年に建てられたものである。
おしゃもっつあんの霊木の傍らにあった東方薬師とはつながっているだろうか。

東方薬師如来
東方薬師如来

周辺を見回しても、目に入る範囲にかつての霊木の痕跡は見当たらない。
石造物群の背後には、草を踏み均したような空間が広がっている。
あるいは、この草の下に古株が埋もれているのだろうか。

石造物群背後の空間
石造物群背後の空間

その他に、橋からの目印にもなっていた杉の木が一本立っている。
樹齢は40~50年といったところだろうか。

平松観音の杉

おしゃもっつあんの大杉は昭和五十年代の時点で既に枯死していたのだから結びつけようもない。
とはいえ、杉はこの一本だけしかないので、しばらく眺めてみる。

眺めてみると、根本部分に蔦が絡まっている。
そして、蔦と杉の間に、何か別の木材のようなものが挟まっていることに気づいた。

根本に蔦が絡まる

もしや、霊木の破片が立てかけられているのではないか。
そう考えて触れてみたが、まったく動かない。地中に埋まっているようだ。

裏側に回ってみる。すると、
大木の古株の中心を割って、若杉がまっすぐに伸びている。
その様子がよくわかった。

古株の中の若杉

これだ。
この古株が、かつての杉大明神、横内のおしゃもっつあんに違いない。

考察

横内のおしゃもっつあんは次代に受け継がれていた。

想定外の感動的な光景である。

杉大明神、おしゃもっつあんなどと記されているわけでもなく、こちらの勝手な思い込みなのかもしれない。
しかし、今もこの地で生き続けるシャグジ。
その息遣いを、今日、確かに感じることができた。

おしゃもっつあんの霊木

2025/1/25踏査
2025/2/1再踏査

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