概要
押切八幡神社は、八幡神社、白髭神社、左口神社による三社相殿の神社である。
明治を待たず、江戸後期には既に相殿になっており、扁額にも三つの社名が並記されている。
また、三社のうち左口神社は、当時、三狐神社と称していた。
現社地に合祀される以前、八幡社は「谷ツ山」の麓に、白髭社は石川村境に、三狐神は字宮の腰に鎮座していた。
このうち白髭社は田の中にあったが、田に害があるとされて現在地に遷座された。
旧地は開墾されて六反余の田になったが、神意に沿わなかったか、
遷座当時は村中に種々の災禍が現れたという。
さらに、村民の下女に神憑りがあり、
衣の中から光を出しつつ粗略な扱いに激しい怒りを示した、という話も伝わっている。
踏査結果・考察
白髭社の遷座に際して様々な障りがあったことは、
駿河志料、駿河国新風土記、駿河記の三地誌すべてに記されている。
一方で旧地への復祠には至っておらず、村内に合祀への様々な葛藤があったことがうかがえる。
さて、「三狐神」から「左口」に改称されたという経緯から、
三狐神がシャグジの一種であること、
また、田の神として稲荷に近い信仰だったことが見えてくる。
現在のシャグジの多くは境内の片隅に隠れているか、合祀によって消えかけているかだが、
当社は合祀令に先駆けて相殿となったが故に明治以降も丁重に祀られ、
シャグジへの崇敬が保たれたと考えられる。
2022/10/15踏査
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